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【講演】2019年3月19日「障がいのある人の家族の話を聴くサロン」

障がい当事者講師の会すぷりんぐ主催「障がいのある人の家族の話を聴くサロン」に登壇し、きょうだいの立場からお話をさせていただきました。

私自身のきょうだい体験、きょうだいの就職、結婚、その他のよくある悩みなどと併せて、そのころちょうど目にしたスピノザの哲学を紹介しました。

配布資料としては、先天性風疹症候群について、北海道きょうだいの会の概要ときょうだい関連サイトの紹介、きょうだい関連書籍の紹介、そして全国きょうだいの会のパンフレットをご用意しました。

特に伝えたかったこと、補足も含めてここに書かせてください。

先天性風疹症候群のような一部の病気、障害などについて「防げたはず」という考え方は、罪悪感、後悔感情を生む。
医学的に病気があるとか障害があるとかいうこと自体は、医学や人の力を借りることなどで解決ができる部分も多いかもしれない。
でも、罪悪感、後悔感情は、親やきょうだいをいつまでも苦しくする。
障害当事者にしても「かわいそうな子」というイメージを持たせ続けてしまう。
そういった意味で、私は、罪悪感や後悔のタネをつくらないこと、防げるものは防ぐ、治せるものは治す、というのがいいと思う。
風疹のワクチンを打っておくことは、どの人にもお願いしたいです。
ほぼ日刊イトイ新聞の「風疹」についての記事はとてもわかりやすかったです。

学校の先生や親戚に自分の気持ちを伝えても、「そんなこと言っても、お母さん大変なんだから」と、親の肩を持たれたときは、とてもつらかったのです。
それを請け負わなければならないのは、本当にきょうだいなんでしょうか?
私の「気持ち」というのは、どこへいくんだろうか。あってはいけないんだろうか。
そんなことばかり考えて生きるようになりました。
生きていく中で、他人との葛藤は避けられませんが、いつも自分が譲るというのは、違います。
それを学べなかったきょうだいは、大きくなって、自分の意見を持たなければならなくなったとき、あるいは、モラハラやパワハラをするような相手と対峙した時に、とても苦しくなります。

進路、就職や結婚については、きょうだいも、親が「本当はどう思っているか」を日頃の態度などから敏感に感じ取っている。
また、本当にそう思っていないにしても、社会の要請、他の大人や友人との関係の中で「こうすべきなのかもしれない」と自分で(勝手に)背負ってしまう人も多い。
一番いいのは、「自分の人生を生きる」ことを、親や保護者がして見せること。
趣味を楽しんだり、旅行に行ったりしても、こうしておけば誰も困らない、というのを見せる。
そして、あなたもそうしていい、自分の人生を生きていい、ということを態度や言葉で伝え続けることです。
「うちには障害者がいるからそんなことできない」というのは、一番言ってはいけないことだと思います。

きょうだいのことをもし褒めるのだとしたら、本人の進みたい道に進む努力をしているところをほめてほしいです。
親の言うことを聞くとか、いい子にしているとか、そういう、親にとって都合のいいところをほめるのではなくて、その子が生きていく上で必要な力をつけるために必要な課題に取り組んでいることをほめてほしい。
もし、きょうだいに、勉強やスポーツなど特別よくできることがあっても、「それがなくても大事な存在」だということを伝える方が大切です。

生きていく上で、親の知る範囲で、それはまわり道ではないかとか、不利になるのではとか、もしそういった懸念がある選択をしようとしているときには、その懸念事項を情報として伝え、その上で、本人が何を選ぶのかは本人に任せ、どれを選んでも、応援してほしいです。
 
私の不登校や浪人のときの例では、母の「お母さんも保育園行けなかったことがあるから、あなたが学校に行けなくても全然変だと思わない」という、ただただ主観に偏った言葉では、安心よりもむしろ不安になり、「こんなお母さんから生まれたから私もこうなったんだろうか」という絶望のような感覚がありました。
逆に、父の「留年や浪人は就職の時も不利になることがある、それはよく考えて決めろ」という言葉の方が、社会と自分との関係について責任を持つという視点があって、それでもそれを選ぶということを現実的に受け止められたので、そちらの方がありがたかったです。

参加いただいた方からは「ほめられるよりも愛されたい」という言葉が印象に残った、という感想をいただきました。
親御さんが障害者だというヤングケアラーの立場の方は、「話を聴きながら自分の気持ちと重なることが多くて涙が止まらなかった」と終了後に挨拶に来てくださいました。

スピノザの哲学については「100分de名著 スピノザ『エチカ』」のテキストを入手して読んでいただけると面白くてわかりやすいと思うのですが、病気や障害というものの捉え方についても、新しい視点が与えられる、希望や勇気をもらえるものとして紹介したいと思いました。

障害や病気がないことをあらわす「五体満足」という言葉がありますが、何を以って「満足」なのか?
「満足」ということは、何かの条件に対して「完全」な状態であるということですよね。

スピノザの主張する「完全性」とは、たとえば、「人間」であればこう、というように目に見える何かで決められるものではない、としています。

ではどういうものなのか。
それは、個々人の中にある「喜び」「悲しみ」によってはかるものであり、「善」や「悪」も、その個人の「喜び」を増すものが「善」、その逆となるものが「悪」である、としています。

スピノザのように考えるとすれば、医学的にみて病気や障害があるといったことと、私たち個人の「本質」とは関係がなく、健康と言われる人と障害者と言われる人とは、同じように「完全」だという見方ができます。

生きづらさを感じたり、差別などに心を痛めている人も、今まで教わってきたものとは違う「ものさし」=哲学を心に迎えることで、少なくとも自分で自分を苦しめる思考に陥ることが少なくなるのではないか、と提案させていただきたいです。

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