とある人気ランチビュッフェで1周年記念のランチ会を…と企画したのですが、会にお集まりのみなさまのニーズとかみあわなかったようで、ある一名の方と二人でのお食事となりました。
ひとりひとり凸凹の形が違うので、兄弟姉妹でも親子でも、合わない人とは合わないし、他人でもすごく合う人もいますね。
それについては、私は、「価値の優先順位が違う」ということだと思っています。
みんな人としての気持ちはそれぞれ持っているけど、大切にしたいことが違うから、「人の気持ちがわからない」ように見えるだけで、気持ちがないわけではないと思っています。
たとえば、私はある人と話しているとすごく疲れるので、その人と会うような場所には何か強い動機がなければ行かないです。
でもその人のことが好きな人もいっぱいいます。
その人もいいことだと思って言ったりやったりしています。
でも私には合わなくて疲れます。
そして、その人が批判しているほかの人といるほうが、私は疲れないです。
でもその人には合わないみたいです。
そういうことが、どの関係にも、家族の中にもあって、曖昧な言い方で言うと「波長が合わない」ということになるんだと思います。
音楽には、不協和音というのがありますが、性質の近いものがぶつかるほうが、不快に感じるものなのかもしれません。
それぞれをひとつだけで聴けばきれいな音でも、何かと一緒にすると、きれいだと感じなくなる。
すごく近いけどほんの少しだけずれた音は、「うねり」になります。
そういうときは、ぴったりにしよう、したい、という気持ちが強くなるかもしれないです。
その音そのものは、いいとか悪いとかではないのに。
離すと解決することもあります。
音も、遠ければ許容できることが多いです。
不思議な響きになって、逆に、素敵だなと感じるかもしれない。
誰かから離れたいという気持ちが、死んでほしい、とか、殺したい、になっていることがありますが、ただ距離をおけば済んだりもします。
そして、そんな強い気持ちになるときは、自分の中にある「こうあるべき」が、強すぎるのかもしれないです。
どうしても大切にしたい「こうあるべき」は、それはそれで、素敵なことだったり、必要なことだったりします。
私にも譲りたくない「べき」があります。
なので、合わない人とは離れるようにしています。
合う人が見つかるかは、確率の問題なので、たくさん人と会うと、きっと一人くらいはいます。
なるべく多くの時間、合う人(たち)と関わるようにしていれば、合わない人のことはだんだんどうでもよくなります。
どうでもよくなってから考えてみると、少し嫌な気持ちになりにくくなっていたりします。
そんなふうに遣り繰りしています。
クリスマスまで1か月となりました。
みなさんが心身共に健やかにいられることを心から願っています。
(白石未佳子 ほかにソフトアイスも食べました)